駒形根神社
<駒形根神社の由緒>
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神社入口
神社入口から鎮守の森の全景。右側に68代宮司家、左が道場拝殿。
杉林の奥に里宮の社殿がある。神社の地名が一の宮という。
駒形根神社の由緒書
古来、日宮・大日社・駒形社と称し、俗にお駒様と親しまれている。
社記に『日本武尊御東征の折、天照大神外五柱の主神に祈願創建』奥羽鎮護の一ノ宮として駒形嶽(栗駒山の古名)を奥宮、沼倉の地に里宮を祀ったと誌され、太古より日宮と呼称。
大和朝廷蝦夷平定に伴い社勢隆盛。宴暦20年(801)坂上田村麻呂奥羽鎮定を祈願。
四大門(東一関三島、西は花山、南は尾松大鳥、北は秋田仙北)を建て、自ら駒形根大明神の大額奉献。次いで仁寿元年(841)神階正五位賜、清和天皇貞観元年(849)勅使下向正一位賜称号勅宣日宮が資料に散見し、延喜式(901)神名帳登載。後、源氏、平泉藤原氏崇敬篤く武具祭田献納。
社殿壮大。四大宮司三十禰宜六十社家を容し、奥羽総鎮守として信仰を集めお駒精進講の源流となった。
嘉祥三年(900)駒形山大昼寺建立。やがて奥羽一帯修験の地となり神仏混こうに入る。
元文四年(1739)仏教から分離、ご巡幸始まる。寛保三年(1743)桜町天皇より御宣命と御しん筆の扁額を賜る。
また伝承によるといつの世にか、現在の場所に里宮が移されたというが、古神社跡はいまだ幻の神社となっている。
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第六八世鈴杵憲穂宮司筆(画号松柏)
鈴杵憲穂宮司のプロフイ−ル*昭和50年まで公立学校教員
*幼児より神官
*昭和55年宮司
*昭和3年11月19日生
*日本家系図学会会員
*栗原郷土史研究会会員
*絵画四条派宇別松仙の弟子、画号松柏駒形根神社宮司家 駒形根神社隆盛のころ四大宮司、三十禰宜、六十社家を容したというが、その四大宮司の一人が鈴杵家で、鈴杵憲穂宮司は68代目という。神社の歴史は鈴杵家が継続されているだけに社記、ご宝物、古文書などよく整理、管理されている。
上の写真は宮司。駒形根神社 TEL 0228-45-4866
中門は長床ともいい、建築年代は明らかでないが、だいぶ古いものである。嘉祥3年(850年)仁明天皇の御宇、自覚大師が下向してから駒形山大昼寺と称し、大日如来を祀り、祭式は仏式なったといわれてる。長床は、拝殿と門を兼用したもので、仏教建築のの影響を受けたものといわれる。建物は平屋建て、中央は通りで間口八尺、奥行き二間の石畳、左右はそれぞれ間口二間、奥行き二間の板敷きの部屋になっている。屋根は入母屋造、茅葺であったが、現在はトタン葺きに改められている。沼倉の庄に長屋門がないのは神社の長床に似ることへの遠慮からと伝えられている。
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神社記碑
参道上り口左の石碑に郷社指定記念碑文が刻まれている
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中門から本殿
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昭和61年代の中門
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里宮本殿
栗駒山頂のお宮を嶽宮または奥宮といい、沼倉にあるこのお宮を里宮と呼ぶ。
祭神は天照大神を始め五神を祀っているが、馬の神様として厚く信仰されている。
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斜側面からの本殿
前が拝殿、後ろが本殿である。本殿は仏教から分離したころの江戸時代元文年間ごろに南部の宮大工久治なるものが大工の「匠」の称を得るための建築されたものといわれ、見事な彫刻なども施されている。
更新日
2002.4.2
2002.4.10